上海事変の停戦協定
これは大変役に立ちそうです。
この問題解決方法はどこにあるのでしょうか。
上海戦に対する英米など列強の反応は、満州事変に比べてはるかに強硬であった。これは上海をはじめとする華中における列国の利権が脅かされたためである。日本軍は3月3日に戦闘の中止を宣言した。日中両国、および英米仏伊4カ国による停戦交渉が3月24日から上海で開始された。そして5月5日には、日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限区域(浦東・蘇州河南岸)を定めた停戦協定が成立した(上海停戦協定)。
停戦協定によって租界を含む外国人居住地域の北・西・南へ15マイルを非武装地帯とし、この地帯は中国人警察官からなる中国保安隊(平和維持部隊)によって治安維持が行われることとなった。平和維持部隊の武装は最小限のピストルなどに留められた。この協定にはイギリス、アメリカ合衆国、フランス、イタリアの各代表が立会人として署名し、協定の執行と運営を監督する為に日英米仏伊の領事と上海市長からなる国際委員会が設置された。しかし、国際委員会には平和維持部隊を監督する権限がなく、平和維持部隊がどの程度武装しているかは把握できなかった。
この非武装地帯内で起きた大山勇夫海軍中尉(当時)殺害事件を巡って後に第二次上海事変が勃発することとなる。
田中隆吉の証言
1931年9月18日に起きた柳条湖事件を契機として満州を舞台として日華両軍は戦火を交えた(満州事変)が、露骨な侵攻劇は各国からの反発を招いた。柳条湖事件の首謀者板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐らの依頼によって、世界の目を他にそらすために上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐が計画した謀略であったというもの。実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」川島芳子。
田中の愛人であった川島芳子は中国人の殺し屋を雇い、1932年1月18日の夜、上海の馬玉山路を歩いていた日本人僧侶を襲わせた。
中国人が日本人僧侶を殺害したという事件は、日ごろから中国人に反感を抱いていた上海の日本人居留民の怒りを爆発させ、青年団が中国人街に殴り込みをかけ、各所で暴力事件が続発したため、上海の工部局は戒厳令を敷いた。上海の日本人を保護するために派遣されていたのは海軍陸戦隊の約1000人だったが、中国側は3万5千人だった。治安悪化で日本人が不安に駆られる中、田中隆吉の工作による発砲事件が引き金で、1月28日、蔡廷楷が率いる19路軍(私軍)と戦火を交えた。
国際都市上海を戦場に変え、世界世論の注目を浴びた戦闘は続き、その間に黒竜江省省長である張景恵らによる東北行政委員会が、満州民族出身の元清朝皇帝愛新覚羅溥儀を執政として3月1日に満州国の建国を宣言した。上海事変は満州事変から列強の目を逸らすという目的を達したものといえる。日華両国の停戦協定が成立したのは5月5日のことであった
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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